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2007年 11月 11日
なんだかもうクリスマスの足音が・・・
最近ちょっと気にしていること。 「フランスでは…」「ノルウェーでは…」「日本では…」「東京では…」と、果てしない「では」の応酬に飲み込まれないようにすること。 海外生活から戻ったりすると、人はこの「では」を濫用したくなるらしく、フランスではこう、日本ではこう、さらにパリでは、オスロでは、エトセトラ、エトセトラ、もうええわ!! と、ほとほと食傷気味なのです。 もちろんこういう「では話」ってある面ではおもしろい。フランスでは人々がこんな風にふるまうとか、ノルウェーでは○○が何よりも大事だとか、それに対して日本ではどうだとか話はつきないし、海外の話にかぎらず、京都ではいまだに何々がどうのこうの、東京ではかくかくしかじか、というふうに、この「では」を使うと、見たこときいたこと思ったこと、あるいはあまりよく考えていないこと、ただ人の話をきいて鵜呑みにしたこと、思い込み、すべてバサバサと切ってそれらしい「文化論」を語っている気になれる。 でもこれは実はとってもつまらないことだとわたしは思うのです。 何となくただいろんなところに境界線を引いているだけな気がするので。「では」を繰り返すことで世界を細分化して、そこから抜け出せなくなると言ったら大げさか。 「フランスでは○○が普通」というふうな物言いをして、またはそういう物言いを聞くなり読むなりしてそこに面白みをみいだす気持ちも分かる気がするのですが、自分は冗談以上のレベルでこの「では」地獄にはまりたくないと思います。 いろいろな国の多様な文化を知ってその違いを尊重しよう、というのは流行でもあり、多くの人々が熱心にやっていることもあるけれど、異文化異文化といって境界線をたくさんつくるより、そういう境界線をなくして乗り超えてゆくことのほうが興味深いし、建設的だと思うのです。 異文化交流で本当に面白いのは「違い」ではなく「共通点」なはず。 自分たちがいかにスウェーデン人と違っているかを強調したいノルウェー人、中国人に間違えられて気分を害する日本人、大阪弁がいかに京都弁と違うかを力説する京都人、気持ちはわかるけれど、そんなささいな違いよりも、似ているところにアイデンティティを託したらもっと楽になるのでは、と思ったりするのですが、まあそれは極論でしょう。違いを明確にしてそれを守ることに命をかけている人もいるわけで。 でもわたしはそんな境界線を軽々と飛び越えていけるような世界だと良いなあと思います。「相手も自分もたいして変わらないんだ」という前提がないと、そもそも異文化交流なんてできないと思うのですがどうでしょう。 「フランスではディナーなどで自宅に招待された場合、最低でも15分は遅れていくのが礼儀」というのをどこかで読んで、その通りにしたら他の人を待たせて恥ずかしかったとか、「では」にしてやられたことはそりゃあもう数えきれないくらいあります。 行き着くのは「何でも自分の才覚で判断・行動する」というこの当たり前すぎる結論なのだろうけれど、知らず知らずのうちに既製の「では」に頼っていたりするのも事実。 また逆に、なるほどー! という「では」に出会ったこともあります。 フランスのラジオで、とある演出家(名前を失念…)がパリとニューヨークを比べて言っていたこと: À Paris, on aime les mots. À New York, on aime l'effet.うまく日本語にできないのだけど「パリでは人々は言葉を好む。ニューヨークでは人々は効果を好む。パリには質問があって、ニューヨークには答えがある」という感じかなあ。 二つの街の本質を言い当てている気がして何度となく思い出すひとことです。
by Ryoko_rts
| 2007-11-11 15:20
| monologues
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